5、 大だたら製鉄

 風を送るにはフイゴを使いますが、フイゴも時代とともに変わりました。また、古くは野外で行われていた製鉄も江戸時代には「たたら場」が作られ、屋内で行われるようになり、フイゴも「天秤(てんびん)フイゴ」と呼ばれる足踏み式のものができ、送風量が上がりました。炉は粘土で作った大きな箱形が特徴で、それに伴い、たたら炉の地下の湿気を防ぐために大変複雑な地下構造も発展していきますが、地域ごとに異なっていたようです。
 江戸時代の大だたら製鉄はたくさんの労働力が必要でした。その多くの人たちを組織して行われた製鉄でしたから、「企業たたら」とも呼ばれています。山をくずす人、川で砂鉄を選別する人、炭を焼く人、それらを運ぶ人、たたらの炉を作る人や操業する人などです。たたら操業を指揮監督する人を「村下(むらげ)」と言いました。
 奥出雲の奥出雲の大だたらは銑鉄(せんてつ)=ズクを作ることが主でした。銑鉄を作ってから、含まれている炭素の量を減らし、「鉄」にして売った方が利益が出るのです。この技術を「大鍛冶(おおかじ)」と言います。たたら製鉄の8割がこの大鍛冶のためのズクを作ることでした。日本の伝統的な道具や刃物は鉄に鋼を付ける世界中でもめずらしい技法です。そのために日本では鋼より鉄の需要が多かったのです。
 大だたらで、たまたま「ケラ」(鋼を主体にしたかたまり)ができてしまうこともありましたが、始めはこの何トンもある大きな鋼のかたまりを運ぶことも割ることができずに困ってしまい、山に捨てたものもありました。後に「大銅場(おおどうば)」という鋼を割る技術が確立され、鋼も小割りして売ることができるようになりました。1度の操業で砂鉄は約10トン、炭を約10トンくらい使い、3日〜4日の操業で約2.5トンのズクやケラを作ったようです。
 奥出雲の鉄や鋼は質が良く、全国的に流通していましたが、これは砂鉄の質の良さだけ問題だけではなく、大きな山林があったこと、製鉄の経営者は広大な耕作地も所有していて経済的基盤がしっかりしていたこと、陸路や船の流通経路などが整備されたこと、地元の松江藩の政策など、いろいろな条件を考えなくてはなりません。


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