■2.人生の予定になかった「家」


◆<それぞれの家には、それぞれの問題がある>

 私たち夫婦は生涯家を立てるつもりは全くなかった。それが急に家を建てることになった裏には、私の側の複雑な事情があった。話しはかなり横道にそれる。しかし誰でも「家を建てる」ということには、それなりの事情があるだろう。
 それぞれの家庭には、その家庭の数の分だけ問題があることが多い。
 これは自分たちが家を建てることで、他の人の事情を聞いたり、互いの問題の話しができたりして、始めて「人それぞれの背負っている事情」が「家という側面」で見えるようになった。
 私の「生まれた家」にも例にもれず問題があった。

 私の元々の生まれは山形県山形市銅町。鋳物の町だが、曾祖父は宮大工で祖父もその腕を磨いた。しかし、経営的な手腕のあった人物だったので、大工の棟梁ではおさまらず、公共建造物を競争入札で請け負ったり、近隣の小学校に納入する机や椅子の製造工場まで作るなど派手に仕事をして派手に稼いで、派手に遊んだ人だった。子供だった私にもわかるほど、祖父はなかなかの顔立ちをしていた。
 昔の祖父の遊びの中には「女遊び」も当然入っていたことは、若い頃の写真から容易に察することができる。
 この祖父の初めの妻は、私の母が6歳の時に結核で世を去った。しかし、その実母が病に伏しているときに、すでに祖父には別の女の人がいた。その人が後妻として母の継母となった。私にとっては義理の祖母になる。この祖母は現在92歳で健在で山形に1人で暮らしているが、貧乏だったために明治生まれの祖母は文字の読み書きができない。

 母には7人の兄弟姉妹がいたのだが、いろいろな病気で死んでしまった人が多く、現在は3人姉妹だ。山形に妹がいる。この叔母が今まで何かと祖母の面倒を見てはいたが、昨年、病気になってしまい治療に専念するために祖母のお金の管理を私に託した。文字が読めない書けないという人には、この世を1人で生きていくことは困難だ。税金が払えない、病院にも行けない。だから人の助けがどうしても必要なのだ。

 この祖母と母は実に仲が悪い。後妻という他にも理由は母にしてみればたくさんあって頷けることも多く、これについては今まで何百時間も聞いてきた。それでも、私が東京にいてできることは何とかしてあげるしかない。祖母のお金の管理や介護保険の利用など、けっこう用事はある。母にとって、嫌いな祖母の用事を私が肩代わりすることは母にとって楽なことだと思っていた。

 ところが、私が祖母の面倒を見ると母の整理のつかない心理状態のせいで、私が何か祖母の味方をしていると勘違いされ文句を言われることが徐々に増えていった。
 さらに母には脊椎カリエスで身体障害者の姉がいて、東京に住んでいる。現在、75歳。この伯母と母は今までそこそこ仲良くしたりしていたのだが、1年前の正月からひどく仲が悪くなっていた。
 また、極めて少ない年金では伯母の生活費の問題があり、その解決策として祖父が残してくれた伯母名義の山形の土地を売ることになっていた。世慣れていない伯母の変わりに動くのは私だ。それでどうしても伯母と連絡を取ることが増えた。

 都心の雑踏の中で久しぶりに会う伯母は小さかった。身体障害者として地味に生きざるを得なかったために、伯母の性格もかなり頑なになっていた部分もあり、私は若いときには保守的な考えの伯母と何度かケンカもした。でも、今は頼りにしていた母からそっぽを向かれた伯母の不安な気持ちが痛いほど伝わってきた。
 叔母はカリエスのために身長が私の腰の高さしかない。本当に小さかった・・・・。
 この時をきっかけとして、伯母と私の養子縁組の話しが浮かび上がった。

 私たち夫婦はすでに子供ができない歳になってからの結婚だったので、どうやっても老後は夫婦2人だけになってしまう。もしもどちらかが、先に死んでしまったら心細いだろうと想像すると伯母の心細さが身に浸みた。

 一応、前もって姉と母には相談をしたが、母からは猛反対されたが、そこには財産問題もあった。
 今、現在、母が住んでいる家の土地は伯母名義になっているが、公正役場で遺言状を作成し、万が一の時には母に渡るようにしてある。私が伯母と養子縁組をして、伯母が安心するだけの問題なら母が反対したところで、大したことがないと思った。実際の法律の問題としては夫の同意だけが必要だ。

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◆<とうとう実家を追い出されることに・・・・>


 ところが、これが母の怒りを爆発させてしまった。過去に何度も「出て行け」とは言われるようなもめ事はあったが、今度だけは尋常ではなかった。母にとっては「許し難いこと」だということはわかるのだが、その理由が私には納得できない。
 私は養子縁組をしても決して遺留分の請求などしないと誓約書を書くと申し出たが、効果はなかった。
 それでも、なんとしても母の怒りを少しでも静めようと、何度も何度も長時間にわたり母の話しを聞くことも試みた。しかしその結果はまずます怒りを増殖させるだけだった。この騒ぎは近所の人まで巻き込んだ。

 私が生まれてから育った家族も子供の頃からもめ事が絶えることはなかった。父は養子に来た人で、どうやっても祖父には勝ち目がなかった。山形の銅町で父が始めた小さな鋳物工場を閉鎖して、両親は幼い妹だけを連れて上京した。しばらく姉と私は祖母に育てられた。その後、私たちも東京に来て家族が一緒になった。
 しかし、慣れない東京ですでに父はアルコール依存症になっていた。酒を飲んで暴れる父には母だけではなく私たち3人姉妹も苦労した。父が暴れるとみんなで暗い夜道を逃げた。大田区の池上本門寺の近くだったので、よく寺の石段に4人で腰掛けて時間を過ごした。

 私たち姉妹が大きくなると、1人ずつ家を離れて行った。最後に出たのは私だった。そして、とうとう父は私が24歳の時、脳溢血で孤独のうちに世を去った。
 そして、初めに東京を離れたのは姉だった。次に妹だった。そして私だけが今でも東京にいる。
 離れてはいるものの、姉はそれなりに母と私の間に入って何とかならないかと心を砕いてくれたが、何ともならなかった。祖母と伯母と母の3人の間に挟まれているのは私である。姉は兵庫県に、妹は長野県に住んでいる。みんな遠い。山形に近いのも私だし、おまけに子供がいないので動きが楽な分、負担は大きくなる。毎年欠かさず祖母のいる山形に帰郷し続けたし、出かける用事は増えた。しかし、遠く離れた肉親の介護のために遠距離を行き来している人に比べれば、祖母はなんとか元気で介護保険を利用できているので、私などはるかに楽だと自らに言い聞かせている。

 しかし、問題が祖母と母と伯母との精神的な関係の中に引きずり込まれると、どんなに大変なことかを理解してもらうのは困難だった。
 人間の関係こそが泥沼だ。
 日が経てば母の怒りは静まるかとも思ったが、日毎に増していった。「出て行け」という母の言葉は強くなる一方だった。
 
 そうして、とうとう家を出る決心をした。
 とにかく母にとっては「突然の整理のつかないこと」であるし、「今後の予想が付かないこと」であるし、「だから許せないこと」だったのだろう。だからこそ、母は私を信用できなかったのだ。私は今までできるだけ母を大事にしてきたつもりだったが、一瞬にして「過去の親孝行」は消えてしまったことを考えると、「親孝行」は私1人の思い違いだったとしか言いようがない。

 始めは引っ越し先にアパートと考えた。今でもかなりの家賃を払っているが、引っ越してもこのまま払い続けるのなら、この際いっそ家を建てるのも手だとも考えた。しかし、それには自己資金も必要だが住宅ローンを借りなければどうしようもない。
私の事情でこんなことになったが、結婚していなければどうかと考えると、多分、お金のない私は我慢するしか方法はなかった。ローンを借りられるのは夫しかない。そうなると、夫は私のせいで多大な負担ということになる。
 引っ越し先の家の場所を同居を前提に考えてもみたが、夫はかえって中途半端な距離で通勤時間に取られるなら、今のままの別居結婚か週末婚かわからないような形態の方が良いと言う。

 あれこれ考えているうちに、私はとうとう「離婚」を提案した。どっちみち私は泥まみれの離婚経験者だ。「バツイチ」などとカッコ良く言えるようなものではなかった。離婚を乗り越えるのはとても辛くて非常に苦労したが、1度したものだから2度だって何とか乗り越えられると考えた。
 重たいことは軽く考える方が良い。
 
 夫はと言えば、結婚してみてわかった「ややこしい親子関係」にとても疲れていた。それを私は十分に察していたので、冷静に離婚できるうちにしておくのも1つの方法だろう。
 しかし、夫はボソッと言った。
「でも、結婚するより離婚は10倍のエネルギーがいるって聞くから離婚はめんどうだからやめておこう。」
 こうも言った。
「でもさ、僕たちが離婚するなら荷物を移動する必要もないから、紙切れ1枚で済むんだ、楽だね。いつでもできるから、先に延ばしておこう。」
 この時は夫は決心のほどをさらっと言ってはみたが、後になって住宅ローンの負担は考えていた以上に重かった・・・・

 

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