■1.「象」が家を?!

◆<泣き笑いの始まり、始まり〜>

「もしもし・・。」
「はい、象設計集団です。」
「こちら朝吹と申しますが、すみません、富田さんいらっしゃいますでしょうか。」
「お待ちください。」

 こうやって「家を建てる」ことの初めの相談を持ちかけたのは2001年5月8日の午後6時を過ぎた頃だった。

 電話の主は私、朝吹美恵子。夫は中野俊。ある理由から、急きょ、私たち夫婦はなけなしのお金をはたき、人生の予定になかった家を建てることになった。しかも設計を引き受けてくれたのは、私がもっとも興味をもっている「象設計集団」。こんなチャンスは一生のうちにそうあることではないので、私はこれを記録していくことを思いついた。しかし、この時にはこれから先に私たちのひどい「困惑」があったり、「象」のスタッフを泣かせてしまったりすることがあろうとは想像もしていなかった。

 これを書いている現在、設計依頼から7カ月が経ち、やっと確認申請中。ひとまずヤレヤレという所だが、これから先、まだ何が起こるのかわからない・・・。

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◆<象設計集団との出会い>

 ここでまずは、世界でもその建築物が高く評価されている「象設計集団」と私との関わりをお話ししなければならない。
 
 始めて、私が象設計集団を知ったのは今から15年ほど前だっただろうか・・・。
 私の姉の夫が兵庫県の但馬(たじま)地方で小さな会社を経営している。その社屋を新築するときに義理の兄から相談を受けた。別に私が建築に詳しいわけでも何でもないのだが、美術大学で油絵を専攻していたので、多少は何か役に立つと思ったからだろう。
 そこで私はさっそく本屋に行き、建築雑誌をどっと購入した。そして、家に戻ってパラパラとページをめくった。いろいろな建築が載っていた。私でも知っている有名な建築家の作品もあったし、話題になった「つくばセンタービル」や、通っていた中学校からよく見えた「東京カテドラル」などもあった。
 しかし、ある写真が雑誌をめくる私の手を止めた。それは丸いテーブルで三角の背の高い椅子が並んでいる室内の写真だった。頭の中に「アーサー王と円卓の騎士」の場面が浮かんだ。何やら楽しそうでおとぎ話を思わせる雰囲気だった。「モダン」とか「洗練」とかとは違うものと感じられたが、好きとも嫌いも感じなかった。説明を読むと埼玉県宮代町のコミュニティセンターで、「象設計集団」の設計と書いてあった。およそ私が「好き!」と飛びつくようなものではなかったが、どうしてか心に引っかかった。
 さらに雑誌を何冊か見ていくと、また妙に気になる写真が出てくる。それがことごとく象設計集団の手によるものだった。

 残念ながら、義兄の会社はすでに地元の工務店で設計も全て決まっていたので、私がたくさんの雑誌を見たことが役に立つことはなかった。でも、あの引っかかりは何だろうと気になって仕方がなかったが、その時にはわからないままに、心の中にだけしみついた。
 
 その頃、私はある会社に勤めていた会社員だった。少し前の30歳までは母の経営する目白にあった飲食店を切り盛りしていたが、店の関係で登山家の加藤保男さん(故人)と知り合いになり、1年間トレーニングして翌年にスイスのマッターホルンを加藤さんのガイドで登った。それをきっかけに生き方を変える決心をして店をやめてしまったが、当時、妹がやっていたワインハウスに集まる人たちの中に数人の建築関係の人がいた。そこで気になっていた象設計集団のことを尋ねてみたら、熱狂的なファンが2人いた。元は3人で始まった設計のグループで、残念ながら1人はガンで亡くなったが、樋口さんという男の人と富田さんという女の人が中心でやっていることを教えてもらった。
 しばらくして、その樋口さんと富田さんたちも教えを受けた建築家、故 吉阪隆正氏の全集が発刊された。それを早稲田大学の建築科を出た友人たちが熱心に売りまくっていたので、私も余裕のない生活からお金をはたいて全集を買った。でも、難しくてまるで読み進めなかった。

 それからまた、数年が経った。
 姉夫婦から再び相談が来た。今度は姉夫婦の自宅だった。義兄は小さな会社だが社長だし、当時は日本もまだまだ景気の良い時期でそれなりの規模の家を建てる予定らしい。そこで、私の頭に真っ先に浮かんだのはもちろん「象」だった。でも、どうもかなり有名な人たちみたいだし、個人住宅をどうやって頼んだらよいかもわからなかった。

 そんな話しを友人たちの建築士に相談をしたら、可能性はあると言うのだ。姉夫婦はいろいろな市民活動を熱心に行っている。自宅にもたくさんの人が集まるような生活をしているので、そんな空間も作れたらいいと考えていた。友人たちはそれが「象」が引き受けてくれる要素になると言う。さらに建築雑誌の編集をしている知人は卒論を「象」で書いていたことがわかった。そこでその知人に連絡を取ってもらうことになった。
何だか姉夫婦のまったく関知しないところで、どんどん「象」に近寄っていた。
 とうとう、当時、東京の東中野にあった「象」の事務所を訪ねる日程が決まった。

 姉夫婦が来る前日にこんなことがあった。大手設計事務所で働いている友人たちが夜になってからならだいじょうぶだと言うので、私をそこの資料室に招き入れてくれた。そこで「象」の資料を集めた。その1人が言った。「ねえ、僕が調べたら、富田さんは僕たちの中学・高校の先輩だったよ。これは何かの役に立つかもしれないよ。」その友人と私は旧東京教育大学付属中学と高校で先輩後輩の関係だったが、富田さんはさらに先輩だった。へぇ〜、そうか、頭の片隅に置いておこう。

 象の事務所を訪ねたのは夏の暑い日だった。木造の平屋の普通の住宅で、網戸もなく開放的なふんいきだった。姉夫婦と私の3人は畳の部屋に通された。
 しばらくして富田さんが現れた。この人がかの有名な建築家かと思って眺めたが、どこにもそんな雰囲気がない。さらっとした感じの良い人だが、あまり話さない。姉夫婦も緊張しているせいか口数が少ない。仕方なく、私がいろいろ話すことにした。でも、私が話しても仕方がないのに・・・と思いつつ、姉夫婦の生活振りを・・・、オッと、ブ〜ンと蚊が飛んで来る! 知らないうちに蚊は私の足を容赦なく何か所も刺していく。バシッと殺すのもなにか下品だから・・・がまんがまん。だって富田さんは涼しげな顔を崩していない。私はいくつも刺されてかゆくてたまらない。

 話しは何かがつっかかっているようでなかなか進まない。そこで学校の話しを思い出し、こう切り出した。
「ところで、富田さんは・・・友人が調べてわかったのですが、私の中学・高校の先輩に当たるようです。私は80回の卒業ですが・・・。」
「あら、まあ、そうですか。それでしたら、ひょっとしてフルーティストの三上明子さんはご存じですか?」
「はい、親しくさせてもらっています。私は目白に住んでいますが、三上さんは少し前まで江戸川橋に住んでいて近所でしたから、何回かうちに遊びに来てワインを飲んだりしていました。三上さんのフルートはすごいですね。」
「ええ、本当にあの方のフルートはすばらしいですよね。」

 富田さんが急にリラックスしてきた。三上明子さんに感謝、感謝。

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◆<非・排除の思想>

 場面は変わり、話しは神田の寿司屋。

 姉夫婦の家を建てる話しが進んでいる最中のことだが、私は義兄と2人で神田の知人の寿司屋「金寿司」に入った。そこで象の話しをしながら寿司を食べていた。すると寿司を握っていたご主人が突然、話しに入ってきた。
「いやあ、僕も東武動物公園に見に行ったのですが、象の建物はいいですよね。排除の思想がないですね。」
と何気なく言う?! ウウ〜ン、これには唸った。
「排除の思想がない」、これは言い得てピタリだ! まさにこの言葉は象設計集団の特徴を端的に表現していると感じた。
 私は決して「象の建物がものすごく好き」ではないのだ。一番初めに建築雑誌で「象」の作品の写真を見たときには色使いといい、形といい、どちらかというと「ずいぶんと私の感性とは違う」と感じた。そして実際の建築物に足を踏み入れても、その感覚は同じだった。しかし、ふしぎなことに居心地の悪さがない。自分の好き嫌いという感性とはおよそ違うのに、そこになぜか引かれるものがあった。それがどうしてなのかがわからなかった。
 「排除の思想がない」ということは「異なる価値観が共存できる空間」と言い換えられるだろう。自分の感性や体験にしがみついていた私自身が、なぜ「象設計集団」の建築に引かれた理由がやっとわかった気がした。自分の感性にしがみついていた私自身を否定してくれる物だった。
 
 姉夫婦の自邸は、その後、きちんとした形で象設計集団が引き受けてくれることになった。この家は「ドーモ・キニャ〜ナ」という名が付けられている。「ドーモ」はエスペラント語で「家」を意味する。「象」が設計にあたった個人住宅にはよくこの言葉が付けられている。ちなみに「キニャ〜ナ」はこの但馬地方の言葉で、「来てね」という意味だ。現場はアメリカ人のマークさんとマンディさんの夫婦が担当。足かけ4年、但馬の日高町に住み込んで仕事をした。その間にかわいいベロニカちゃんが生まれた。
 新築祝いには「金寿司」のご主人とその妹さんが寿司を握りに日高町まで行ってくれた。

 「ドーモ・キニャーナ」は半地下に小ホールになるようなスペースがあり、グランドピアノもある。いろいろな人のミニ・コンサートなどもよくやっている。
 フルーティストの三上明子さんにもここで演奏してもらった。

 そして、姉夫婦は今も活発に建物を活用し続けている。

 私自身はお金がないので、かわりにこうやって姉夫婦の家を象に建ててもらうことで、このうえなく満足をしていた。
 
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◆<変更された生活設計> 
 
 次に私たち夫婦のことを少し書くことにする。これは象設計集団に頼む時には住み手の生活を把握するために重要なので、実はかなり根堀り葉掘り質問されたことだった。
 夫の職業は地質学の研究者で火山が専門。年間60〜70日ほど山に入るが、研究所が茨城県のつくば市にあるので就職して以来、住まいはつくばだ。一方、私は今ではグラフィック・デザイナーだが、38歳の時に勤めていた会社が部門閉鎖でクビになり、その後1人で仕事を始めたので、企画やディレクティングと何でもやる便利屋みたいなものだ。そのため仕事に応じて他のスタッフと組んで仕事をする必要性があることと、市民グループの活動や学習会など、東京を拠点にしているので前から西東京市の田無に住んでいる。
 この私たちが結婚したのは今から5年ほど前になる。仕事の理由から別居結婚を前提にしていた。言い方を変えれば、私が単身赴任という形態を取った。また、長いこと仕事で使ってきた朝吹姓を変えるのはやっかいだったので、通称は朝吹で通したかった。
 私の友人にも別姓、別居結婚の人がいるし、夫の俊の職場にも何人かいたので、互いに抵抗はなかったが、問題は中野家の両親だった。しかし、頑固な息子に反対しても無理とわかっている2人は反対もせずに、すんなりと長男の「普通ではない結婚」を受け入れてくれた。

 私は取り立てて東京が好きではなく、老後はこの空気の悪い都会を避けて夫の実家の長野県で一緒に暮らすつもりでいた。だから、いつまで別居を続けるかの相談も特にせず、私の不安定な収入がどうにもならなくなった時にはつくばで同居すればいいという軽い気持ちだった。

 私は過去に13回の引っ越しを経験している。転勤などの必要に迫られて引っ越しする人はもっと回数が多いかもしれないが、私の場合は転勤ではない。まあ、それなりの理由がその時々にあった。実は、私は住んだ場所にかなり執着するタイプで、それだと引っ越しの度に「引っ越しノイローゼ」のようになるので、今では「住むところはどこでも良い」と考え方を転換させている。要するに自分なりに苦労を重ねているうちに、かなり軽い人間に変身したのである。でも、他人から見れば私はとても楽しそうに映るらしく、人様からは「あなたのどこが苦労?」と言われる。
 「自分に取って宇宙のように大きな苦労が、人から見れば鼻くそのようなもの」。これは私がここ10年ほど通っている親鸞の学習会の先生(仮立舎のホームページ、 http://www10.ocn.ne.jp/~keriusha/)の言葉である。私の場合も同じだろう。 

 そして、結婚後もそれまで通り、私は母が住む東京都西東京市の田無にある自宅兼アパートのうちの2室を借り続けた。事によっては夫が職場を退職するまでこの生活を続けたかもしれない。

 ところが、今回、思わぬ理由のため家を出なくてはならなくなった。そして、自分たちでもあれよあれよという間に家を建てることに進んでしまった。これはおいおい話して行く。

 話しを一番初めの電話に戻す。

 私が取り次ぎをお願いした富田さんの声がやっと受話器から聞こえてきた。
「はい、こんにちは、富田です。」
「突然のお電話で失礼します。実はいろいろな理由がありまして、私と中野俊が家を建てることになりまして、どなたか象設計集団にいらした方を紹介していただきたいのですが・・・。」
「はあ〜、何でしたら、こちらも大きな仕事が一段落したので、ここでやってもいいのですが・・・。」
これには驚いた。まさか・・・、しかし、そんなことはあり得ない・・・。
「エッ? でも・・・、何しろ、私たちの土地は小さくて20坪で建坪率が60%ですから、12坪、容積率が200%なんです。それにお金があまりないので、予算的に象設計集団に頼むのは無理です。」
「でも、低予算でできているお宅もありますよ。」
「あの、それに・・・、実は購入しようとしている土地が建築条件付きというもので、工務店が土地を買って家を建ててセットで売るというものなのです。それを何とかこちらでお願いする設計士さんでも話し合い次第では許可しれくれるかもしれないという微妙な段階なのです。それで設計も工期も時間がかなり限られているのです・・・・。」
「そうですか。私は今月はまだ忙しいのですが、6月からならだいじょうぶですから、時期としてはちょうどいいかもしれませんよ。何とかなるのではないでしょうか。 」

 富田さんはとても軽く答えてくれた。今回、私たち夫婦が家を建てるのには辛い背景があった。この電話の前の1か月ほどは心身共に疲労して夜も熟睡できずにいた。そこに富田さんの柔らかな口調の「設計してくれる」という返事に、私は思わず心が弛んで涙がこぼれた・・・。

 

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